【Denon Official Blog】気まぐれライター山平昌子さんが無人島に持ち込む究極の一枚とは?
無人島にたった1枚だけCDを持って行けるとしたらどれを選ぶ? と唐突に突きつけられる究極の選択、名付けて「無人島CD」。今回登場するのはお茶とクラシック音楽をこよなく愛する気まぐれライターの山平昌子さん。今回はなんと掟破りのCD付き絵本がチョイスされました。
私の記憶にあるもっとも古い音楽体験は、ソノシートだ。ソノシートは、普通のレコードよりもっと薄くてペラペラの、やたらカラフルなレコードのこと。最近の人は知らないかもしれない。

Wikipediaより
子供向け英語教育雑誌の付録かなにかだったのだろう。ふと「英語でも聞かせとこか」と思いついた母親が、3歳くらいの私が眠る時にかけてくれた。楽しげな音楽と、女性の声で語られる小さなお話。その中で英語の単語を教えてくれる。たしか色んな野菜がバスケットに入っていく、みたいな内容だった。玉ねぎさん…オニオン! にんじんさん…キャロット!
だがソノシートにはすぐに傷が入り、「キューカンバー」のところで引っかかるようになった。眠りに落ちかける頃、歪んだ声で「キューカンバー、キューカンバー」と繰り返されるので、怖い…と目を覚ますことが幾度か続いた。よって私が初めて覚えた英単語は「キューカンバー」である。
それから40余年。なぜか英語が話せぬ大人になった今、私は異国のピアニストを追いかけている。レバノン人のアブデル・ラーマン・エル=バシャさんだ。世界三大音楽コンクールの一つといわれるエリザベート王妃国際コンクールで1978年に優勝して以降、67歳の今もフランスを中心に、世界各国で演奏活動をされ、作曲家としても楽譜を出版したり、CDをリリースしたりしている。
私が彼の演奏を初めて聴いたのは、2015年のラ・フォル・ジュルネでのコンサート。易々と繰り出される超人的なテクニックと、無駄な演出を一切そぎ落とし、核心だけを正確に射抜くクールなベートーヴェンに、私の脳天も射抜かれた。
それ以来、来日した時には必ず足を運んできた。コロナ禍の2021年には、来日しないことにしびれを切らして単身フランスまで追っかけ、本人にちょっと引かれた。
2024年に発売されたプロコフィエフのソナタは、「一体どうしちゃったの?」という素晴らしさ。
アブデル・ラーマン・エル=バシャ「Prokfiev: Piano Sonatas Nos.6-8」
その年の冬のゴールドベルク変奏曲も名盤に違いない。
アブデル・ラーマン・エル=バシャ「J.S.Bach: Goldberg Variations, BWV 988 & Italian Concerto in F Major, BWV 971」
しかし私が無人島にひとつだけ音楽を持って行けるとしたら、エル=バシャさんのCD付き絵本「Farandole de comptines au piano – 20 chansons de notre enfance」を選ぶ。
Farandole(ファランドール)とは、南フランスの伝統的な踊りの名前で、転じて次々と連なっていくもの、メドレー というニュアンスでも使われるのだそうだ。comptines(コンティーヌ)は子どもの歌・わらべ歌のこと。とすると、「ピアノによる子どものためのファランドール~私たちの子ども時代の20の歌~」とでも訳せるだろうか。
しっかりした表紙をめくると、右側に挿絵、左側にフランスで古くから伝わる童謡の楽譜と歌詞がテンポ良く配置されている。この挿絵が幼い頃に図書館で出会ったようなノスタルジーと、余白に続く物語を感じさせる。色のセンスがさすがフランス、という感じ。
最後のページに付いているCDでは、女性のナレーションに合わせて、絵本に描かれた童謡が演奏される。もちろん編曲も演奏もエル=バシャさんという贅沢な作り。
おおかみ、うさぎ、ふくろう、象…フランス語歌詞の意味は分からないけれど、色々な動物が登場し、穏やかで、優しく美しく、たまに辛辣に、それとなく教育的要素が含まれる童謡たち。昔を懐かしむ大人たちと、今の小さな子どもの眠りを守ることを願って作られたのだろう。
そして、お気付きいただけたでしょうか。女性の声と童謡、外国の言葉…それは私が生まれて初めて聴いた、あのソノシートに入っていた音源とそっくりの構成なのだ。
ちなみにこの作品の出版社「Editions Villanelle」からは他にも心踊るCD付き絵本が多数展開されている。
ラヴェルの「マ・メール・ロワ」と絵本ですって⁉︎ ぜひとも日本でも正式に輸入販売してほしい。
それまでアーティストの性格と演奏は別物と考えてきたが、追っかけを続ける中でエル=バシャさんの穏やかで思慮深い、誠実な人柄を知った。
そして時に怜悧(れいり)で容赦ないほど明晰な演奏の奥に、自然への敬意と感動、家族とのかけがえのない日常が広がっていることもだんだんと分かってきた。そこには、不安定な地域に生まれた故の、様々な宗教に対する深い理解と平和への強い希求も含まれている。
ある頃のエル=バシャさんのインタビューには、「Souvenir(スヴニーフ)」という言葉がよく出てくることに気が付いた。その言葉だけが、色が付いているように特別に響く。
「Souvenir」は思い出やお土産、という意味のフランス語だが、彼がショパンやベートーヴェンについて語る時には、「先人の遺産」「授かりもの」というような、より大きな意味を持たせているようだ。 偉大な作曲家たちの遺産と人生の真の豊かさを次の世代に伝えていくこと。それが彼の音楽における、また人生における最優先事項のように思える。
あまりに見つけづらいエル=バシャさんのコンサート情報を探すうち、私はいつの間にか彼の4人の子ども達とSNSで繋がってしまった。彼らは皆、画家やチェリスト、ピアニストなどアーティストである。いつも互いの作品をシェアし、友人と歌い、踊り、バカンスを楽しみ、戦争に憤り、クリスマスには家族が集結する。彼らの日常に、父親から受け継がれた人としてのあり方、人生の指針、芸術に向き合う姿勢を、確かに目にすることができる。
子ども達の人生にその繋がりを見出す行為は、お父さんの演奏を聴くことに不思議とよく似ている。それは、音楽を通して伝えようとするものと、日々の生き方として手渡されたものとが、同じ源から生まれているからなのだろう。
このCD付き絵本はきっと、彼のたくさんの子ども達への、またその先の未来の子ども達への贈り物でもある。
私は無人島から世代を超えて贈り物が受け継がれる光景を思い描きながら、私自身が受け取った贈り物に耳を澄ませたいと思う。

ラ・フォル・ジュルネでこの作品にサインをもらうわたくし
山平昌子 プロフィール:
会社員の傍ら、主に茶道やクラシック音楽に関するライター、和歌と花のウェブサイト「ひとうたの茶席」のプロデュース、一般社団法人「日本人作品と音楽文化の会」のお祭り担当など、最近自分が何者なのか分からなくなってきました。エルバシャさんのコンサートではたいてい着物でサイン会に並んでいます。Note「柚子と蜜柑」も覗いていただけますと嬉しいです。